物語を読み終えて時間を経ても、結末より先に思い出す場面があります。
そのページをめくった時の衝撃や、そのセリフへの感嘆。
なぜ私たちは、その一瞬だけを何年も覚えているのでしょうか。
面白い物語とは、結末だけで決まるわけではありません。緊張、予想外の転換、そして言葉の深み。物語が紡がれる中でそれらが凝縮され、意味の変容を感じるからこそ、私たちの心に深く刻まれるシーンになります。今回は、漫画の中で私たちを釘付けにするワンシーンに焦点を当て、その面白さの秘密を探ります。
平行線をたどる対立「知と血」
『チ。』第4集第22話、24話より
『チ。-地球の運動について-』は地動説を完成させることに取りつかれた科学者とそれを弾圧する異端審問官の戦いが描かれ、このシーンでは両者の対照が明確になります。
非道徳的な行いであふれかえった世の中を変えるために必要なもの、知。
悪魔と結託して世界を変えようとすることを阻止し、世界を今のまま保持するために必要なもの、血。
しかしこの場面で印象に残るのは善悪の対立ではありません。
意外にも私にとって、一番親近感を覚えたのは異端審問官に対してでした。確固とした自分がなく、権威に従い、正しさを盲信してしまう姿。私たちも直接的な暴力を振るうことはなくても、無意識に暴力を行っているかもしれないと思い至ります。
主人公の熱量は確かにすばらしいものです。しかし、命を懸けてまで地動説を完成させようとする姿にある種の狂気すら感じてしまう。一方で、暴力を平然と振るう異端審問官への恐怖はあるものの、根底にある精神性は共感できるものであることを知ってしまいます。
ここで現れたのは善悪ではなく、強く信じることの危うさです。
熱意で求める知と盲信で求める血。強硬に進む平行線が鮮明になる中で、読者はどちらにも徹しきれずに揺れ動くしかありません。
極まった歪み「これは僕の物語だ」
『僕のヒーローアカデミア』31巻No.297タルタロスより
このシーンでの面白さはヒーローへの物語が一気に侵食されてしまうことにあります。
一度入れば生きて出ることはできない監獄、タルタロス。オールフォーワンは死柄木を使い脱獄をはかります。物語全体が絶望にひた走るなかでついに最凶の敵が自由になってしまった。今までの苦しさはまだまだ序章にすぎませんでした。
主人公の「これは僕が最高のヒーローになるまでの物語だ」という言葉で始まった物語は、ここで大きく裏返ってしまいました。
悪者とは何か、ヒーローとは何か。ヒーロー物語はこうあってほしいと考えていた定義が崩れ、悪役によって物語がつくりかえられます。『僕のヒーローアカデミア』では、ずっと、主人公がひたむきに成長していく一方で、悪役が一途に目指す歪みの気配がありました。それが一気に顕在化してしまうシーンです。
思いの純粋さはヒーローでも悪役でも変わりません。そのひとつだけを支点にして物語が歪められてしまうダイナミックな動きに面白さを感じます。
古強者へと変わる「生き残りだと思え」
『ゴールデンカムイ』6巻鰊七十郎より
宿場町の賭場をめぐって争う二つの勢力。そこに立ち寄った土方歳三。入れ墨の囚人の噂を追いかける中で、町のチンピラと衝突して切って捨てました。すでに時代も大正に移ろうとしている社会。幕末を戦った「鬼の副長」土方歳三が放った言葉です。
杉元の獰猛さと若々しさ、鶴見の狂気と老獪さに対して、土方歳三は積み重ねてきた気迫を見せます。その気迫は、余裕すら感じさせ、底知れぬ力があります。
昔の人・老人ではなく、多くの修羅場を越えた歴戦の古強者です。
大きな流れの変化ではありませんが読者の中では転換が起きます。そこに突飛さはないものの、言い得て妙で腑に落ちる感覚があります。読者を翻弄して、まるで子どものように楽しんでいる土方歳三がそこにいるかのようです。
史実ではすでに亡くなっている土方が『ゴールデンカムイ』の作中で悠然とした鬼として立ち現れてきます。
虚をつく真実「おもしれえから」
『アイシールド21』20巻170th down INTERVIEW 8より
金剛阿含と蛭魔妖一の頂上ヒール対決。これまでどんな難局でも諦めずにその狡猾さで勝利を求め、信頼を築き上げてきたヒル魔。最強のライバルになる阿含と二人で、試合前にインタビューを受けることに。緊迫感が高まり、シリアス度が高まっていきます。読者の中では、あのヒル魔とはいえ今回は厳しいかもしれないという不安が広がっていきます。その中で、このヒル魔らしい一言。
信頼と不安で振れる文脈から、フェイントのように力を抜く面白さがここにはあります。ヒル魔らしさを損なわず、信頼の軸へと戻される。結果を予想し、不安になっている読者をよそに、ヒル魔は期待を裏切らず、予想だけを裏切ってくれました。
確かに、スポーツにのめり込む理由に「楽しい」以外必要ないかもしれません。対立の予想を積み上げて、緊張感が高まっていく中で、あたりまえのことを思い出させてくれるシーンです。
正体を知る瞬間の面白さ
「名シーン」とは単なる感動の場面ではないのかもしれません。そこは何かが決着する場所でなく、大なり小なり裏切りに遭う場所ではないでしょうか。
それは読者が長い時間をかけて積み上げてきた理解が一瞬で組み替えられる瞬間です。結末よりもそのような瞬間のほうが強く記憶に残ります。
『チ。』は知識をめぐる戦いではなく、人間が何を信じるかという物語だったこと。
『僕のヒーローアカデミア』はヒーロー物語ではなく、社会の歪みの物語だったこと。
『ゴールデンカムイ』はキャラクターの本質が示されること。
『アイシールド21』は読者の予想がいかに大げさであったか。
それは物語やキャラクターの正体が見える場所とも言えます。その正体に納得感があれば、驚きとともに面白さを感じます。
おわりに
本稿は私自身が何度も思い返してしまう漫画の一コマを振り返りながら、その面白さの理由を考えています。
そもそも「面白い」という感覚はとても個人的なものです。同じ作品でも心を動かされる場面は人によって異なり、人生の時期によっても印象は変わります。だからこそ本稿の選定も私自身の読書体験に強く根ざしたものになっています。
もちろんそれが物語の面白さのすべてではありません。
ただ、面白さについて考えてみることは、自分が何に心を動かされる人間なのかを知ることでもあります。もし皆さんにも忘れられないワンシーンがあるなら、その場面がなぜ心に残っているのかを考えてみると、また違った自分自身の見方が表れてくるかもしれません。
その試みもまた面白い体験だと思います。
参考文献
魚豊『チ。-地球の運動について-』小学館、ビッグコミックス、全8巻、Kindle版
堀越耕平『僕のヒーローアカデミア』集英社、ジャンプコミックス、全42巻、Kindle版
野田サトル『ゴールデンカムイ』集英社、ヤングジャンプコミックス、全31巻、Kindle版
稲垣理一郎(原作)村田雄介(作画)『アイシールド21』集英社、ジャンプコミックス、全37巻、Kindle版






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