書くことは楽しい
書くことは楽しいです。
ノートにペンを走らせる感触や、コツコツとした筆記音、インクの滑らかさによって現れる筆跡。こういう感覚的な刺激を意識的に行える充実感。デジタルにはない、手書きならではの満足感があります。
デジタルで書くのも楽しいです。
キーボードの感触と相まって、素早く紡ぐ文章の気持ちよさ。そして、より純粋に論を「組み立て」ていく面白さがあります。
その過程はブロック遊びに似ています。アイデアや情報のブロックをカチカチと組み合わせ、整然とした構造を組み立てる知的な挑戦。完成時には達成感をもたらしてくれます。この遊びには、コピペができるデジタルは相性がいいです。
どちらにせよ、書くことは楽しい。文才やテクニックよりも、丁寧に取り組んでいる時間が持てることの方に価値を感じたります。
書くことがつまらないとき
そもそもは、書くことは楽しかったはずです。それでも書くことがつまらなくなる時は目的に重点を置きすぎているように思います。
もちろん、目的があるのは構いません。目的の先でも達成感や充実感があります。
ただあまりにも「読んでもらうため」「書くことで成果を得よう」「仕事だから」と考えすぎると、義務感であったりテクニックであったりに偏ります。
感覚の楽しみ、組み立てる遊び、創造的な自由が制限されて、つまらなくなる。
「ネタがない」「書けない」。
書いてみても、「これでいいのかな?」と感じてしっくりこない。そして、一文一文考えるのにも時間がかかって、500文字の原稿にも一時間ほどかかってしまう。
これを繰り返していると「書けない」という気持ちがどんどん大きくなってしまいます。
発信するというハードルもあります。例えば、今日あったことを書けばいいなら、毎日書ける。
「今日はとても暑かったです。そんな日に、帰ってから食べるアイスクリームは最高においしかった!」という具合です。
誰かに読んでもらうことをほんの少しでも意識すると、それはハードルになります。だから「書けない」=「(他人に伝えるほど価値のある文章が)書けない」ということです。
二つの重心
書くことには二つの重心があるようです。
自分か他人。
純粋に「原点に戻って自分のために楽しんで書こう!」とは思えません。
仕事として書く時にはどうしても目的や成果が必要になります。そして、それはそれで苦しくも楽しいことを知っています。ハードルを越えていく達成感や安心感ややりがいがある。
歩いてきた道のりを振り返って「ああ。こんなに進んできたなあ」という感慨深い瞬間は大好きです。
「やじろべえ」のようにどちらともなくバランスを取れたらいいなあと思います。
松浦弥太郎さんが著された『エッセイストのように生きる』では、素敵な言葉が書かれていました。
だれかのアイデアに乗っかるのではなく、自分で思いついたアイデアにわくわくする。常識や「そういうものだ」といった言葉に流されず、自分なりの答えを出していく。(中略)あんぽんたんに、ぼんやり、ずっと考える―。このスタイルが、いいアイデアを生み出すのです。
p50
ともすれば、他人に偏りがちになって、原点の楽しさを忘れがちになってしまう。一方で自分に偏りがちになって、ハードルを越える楽しさを失ってしまう。
二つの重心の間でゆらゆらと「あんぽんたんに、ぼんやり、ずっと考える」。
こういうのでいいのかもしれないと、今の僕は思っています。
書誌情報
松浦弥太郎『エッセイストのように生きる』光文社、2023年
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